2019年3月2日土曜日

ドイツの「躓き石」、日本の「踏み絵」には、「憎悪」や「怨念」を消す大追善供養こそが必要

(パリ=飛田正夫 /パリ時‎samedi ‎2 ‎mars ‎2019 02:55)ドイツの「躓き石」の初めの設定意図はユダヤ人連行迫害の記憶を鮮明に残そうというものだったと思います。記憶を覚醒し意識を新たにすること、それは非常に大事な事だと思います。ドイツの「躓き石」や、日本の「踏み絵」には、「憎悪」や「怨念」が表象化されていて、そこにある「憎悪」や「怨念」がもしも解消され得ずに昇華や鎮魂を待っているのであれば、それはどういう意味での記念碑に変質するのだろうか?と考えたのです。

●この「躓き石」に花束が添えられることがあるらしいのです。それによって生きている人もまた殺害された人々も救われるという事なのでしょう。また御指摘の侮辱され踏みつけられる扱いを受ける場合には、その反ユダヤ的な心情がその行為によって更に強化されその人自身の人間性を悪から悪へと墜とし込むということになるように思えるのです。安生として亡くなった人たちではなくて、不当に殺害されたのですからその魂なり正義を救うことは並大抵な事ではなさそうです。ましてや虐殺を執行した人たちは既にその大半がもういなくなっているとはいえ、ヒトラーをはじめとして彼らの救済は永遠にこのような所作では無しえないのではないかと考えたわけです。

●私の思ったのは、昔し釈尊の十大弟子の一人に神通第一の目連尊者というのがいて、その母親の青堤女(しょうだいにょ)は慳貪の罪によって餓鬼道に落ちていたことを彼の神通で見通すのです。炎の中で苦しんでいるその母親を救おうとして水を放ってあげるのですが、その水は反って油となって母親を苦しめるわけです。それで目連は師匠の釈尊の所に走り、質問するわけです。母親が落ちた紅蓮地獄というのは生前に出し惜しみをした。つまり人に法華経を教えなかった罪によるのだというのです。それで目連は法華経を唱えて母親を追善することによって、この地獄の炎が消えたという事なのです。つまり花束や手水を投げても本当に悪で苦しみ地獄に堕ちが人々は救われないという事だと思うのです。彼らの本当の追善は彼らのような悪を救える深い教えが必要だということでしょう。ユダヤ人虐殺においてもまた彼らを殺害したナチスの人々にも共に両者に於いて大きな追善供養が必要なのだと思えたのです。

【関連記事】

ドイツのネオナチが踏む「躓き石」或いは日本のキリスタン迫害の「踏み絵」の事

https://tobifrance.blogspot.com/2019/03/blog-post.html

【参考記事】
https://lphinfo.com/munich-des-plaques-commemoratives-individuelles-pour-les-victimes-de-la-shoah/
https://www.jds.fr/agenda/expositions/stolpersteine-comment-un-pave-de-moins-de-10-cm-est-il-devenu-le-plus-grand-memorial-des-victimes-du-nazisme-au-monde-139970_A
https://www.lemonde.fr/europe/article/2018/11/09/nuit-de-cristal-l-allemagne-se-souvient-des-pogroms-dans-un-climat-trouble_5381289_3214.html

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