2019年4月16日火曜日

何故ノートルダム寺院の尖塔は焼け落ちたのか?仏カトリック教会もマクロン王の権威も失墜

(パリ=飛田正夫/日本時‎2019-‎04-‎16)2019年4月15日大火災の起こった18時45分の一時間後にはパリのノートルダム(Notr-Dame de Paris)大聖堂の尖塔(flèche)は焼け崩れ落ちた。この尖塔は中世研究家のユージェンヌ・ヴィオレ・ル・デック( Eugène Viollet-le-Duc)がオルレアンの大聖堂をヒントにして19世紀に修復・改修したもので、それ以前には存在しなかったものであった。14世紀のデュック・ド・ベリー(le duc de Berry)侯爵のために書かれた祈祷書のアンレミニューム(挿絵)にはサント・シャペルの尖塔が描かれていて、これとノートルダム寺院の尖塔は同じであったと見られている。ノートルダム寺院の尖塔は本堂の交差廊の上に木材800トンを組み入れて築きあげられたヴィオレ・ル・デックの作品である。彼の独自にアレンジしたこの木材が火災を大きくした原因かもしれないという専門家の声もある。しかしこの火災の原因を考えるとヴィオレ・ル・デックの多様した木材というよりは、もっと別の所に本当の因果があったのかもしれない。もっともフランス人一般はこの因果には疎い人が多いのだが。少し書くと、3月7日には、プリマ・ド・ゴール(ゴロワ)と言われるカトリック世界におけるゴロワ(フランス)の最高責任者フィリップ・バルバラン(Philippe Barbarin)枢機卿はリヨン高等裁判所で指導教区僧侶ベルナール・プレナ(Bernard Preynat)のペドフィリア犯罪を長年に渡り庇い隠し続けてきたことが罪に問われ、執行猶予付き禁固刑6ヵ月の有罪判決を受けたことでカトリック教会の権威は完全に失墜していた。マクロン仏大統領はライシテ法を改悪しようとしていたし、マクロンは人権違反の武器販売をイエメン戦争での戦争利用を承知でサウジアラビアへの武器販売を主張していた。更にはこのノートルダム寺院の火災があった1時間後の午後八時からは、3ヵ月続けてきた人気の無かった自作自演のモノローグのマクロン企画の大デバ論争の結論を大統領が発表する予定だった。それを前にノートルダム寺院の火災が始まったのである。それは中世のロマネスクの教会の場合には薄暗く、内部には断熱もかねてタピスリーが壁にはかけて有りそこに灯火が引火して起こる火事が多かった。12世紀ごろにパリ周辺のイルドフランス地方でゴチックという建築技術が生まれることにより、外光をつまり開口部である窓を広くとった明るい教会が誕生することになって、教会内部は明るくなり灯火を焚かなくても済むようになった、そのために火災は減少したのである。今回のノートルダムの火災ではこの身廊と袖廊の交差部の上にある天井の上にのる尖塔を支える組木材あたりから出火したと見られている。

15日は「大デバ」を一人で先導してきたマクロンの結論発表期限日であった。マクロンはこれまでに黄色いチョッキ(ジレ・ジョンヌ)運動デモの人々の意見を嫌って馬鹿にしていて庶民をアル中だとか言って差別し蔑視している。彼らの意見を理解して聞こうともせずに金持ち層を擁護し続け、マクロン一人で何でも決めてしまう尊大な態度はジュピターとかナポレオンとかルイ14世だとか言われてきた。その一つの結果がこのノートルダム寺院の大火災だと考えられる。マクロンは4月15日が大デバの結論発表日だったが、この火災のせいで延期してしまった。ということはさらなる災害はまた先に延期されたということになるのだろうか。心配である。

トランプ米大統領は、空からカナデールやヘリコプターを使った消火作業が何故行われなかったのかと、フランスのノートルダム火災消火の遅かったことを批判してコメントしている。フランスはマクロンの大デバ論争のように先ず火災に成ったら消火介入する前に、中の絵画や彫刻が放水で破壊される危険などが無いかどうかを考えて論議したうえで行動するようだ。その間に火の回りは早く一時間後には尖塔も身廊部も焼け落ちて取り返し不可能なものになってしまった。今のフランスを考えるとそういう所があるようである。


(キーワード Notr-Dame de Paris、la flèche de Viollet-le-Duc  最終編集8:06:40)

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